〜モノを大切にするかたち〜
日本に残る蔵を訪ねて
「川越の蔵の町の一番街のシンボル、老舗菓子店、龜屋」
日本に残る蔵を訪ねるこの企画。第3回目は蔵造りの町、川越にある老舗菓子店の「龜屋」です。江戸時代に川越市で創業された歴史ある菓子店ですが、店舗を蔵造りに建て替えたのは明治時代。この地で発生した大火で店舗を焼失、燃え残った建物の多くが蔵であったために町をあげて蔵造りに着手、「龜屋」の蔵造りの建物の多くがその当時建てられたものです。7つも蔵を構え、この町のなかでもランドマーク的な存在の老舗です。
江戸時代に創業、「龜屋」は8代続く、老舗菓子店
蔵造りの建物が立ち並ぶ“小江戸”川越の一番街エリア。その仲町の信号近くにあるのが江戸時代に創業された老舗和菓子店「龜屋(かめや)」です。
いつも和菓子を買う地元の人たちやお土産などを求める観光客で賑わう店舗で、川越駅や本川越駅から一番街エリアを目指して来るとこの「龜屋」がランドマーク的な役割にもなっています。代々、山崎家の持ち物ということで観光案内などでは「山崎家住宅」と書かれることもあります。
そもそも「龜屋」が創業されたのは1783年(天明3年)です。
初代は長野県中野市の武家の三男。武士の道を捨て、十代半ばで故郷を出て、関東で江戸に次ぐ町であった川越にやってきました。龜屋新井左衛門方で修行を積んだ後、28歳で独立し、暖簾分けを受け、屋号を「龜屋」にしました。
三代目の時代にそれまでの菓子づくりが川越藩から認められ、「御用商人」として藩への出入りが認められるようになり、京都嵯峨御所からも「河内大掾(かわちだいじょう)」の永宣旨(えいせんじ)と藤原嘉永(ふじわらかえい)の名前を賜るほどの有名な菓子店へと成長しました。
現在の建物は明治27年、五代目山崎嘉七(やまざきかしち)が建てたものです。
その前年の26年に発生した川越大火では町の三分の一が焼失、「龜屋」の本店も消失してしまいました。それで「龜屋」では店舗を含めて、防火性に優れた蔵造りの建物をつくりました。建設には約1年の歳月と、総工費1万111円50銭9厘(現在の紙幣価値にして約2億円)を費やした豪華で重厚な蔵造りの建物です。
通りに面した正面には店蔵(見世蔵)と袖蔵が並んで建ち、裏には5つの蔵が並びます。かつて龜屋製造工場だった家屋は昭和57年に美術館に改装され、四代目山崎豊翁が集めた橋本雅邦(はしもとがほう)画伯の作品が展示されており、一般にも公開されています。
町屋風の長く広大な敷地に7つの蔵を構える「龜屋」
「店舗のいちばん上の梁には、この店蔵を建て始めた月日、確か明治26年6月19日と書かれています。それ以前は、店舗は蔵造りではなかったと聞いています。大火で町の建物がほとんど燃えてしまい、蔵ならば燃えないかと、日本橋にあった黒漆喰の蔵を模して、街づくりの一環として店舗も蔵造りにしたのだと思います」と龜屋の代表取締役の山崎共子(やまざきともこ)さんは話します。
以前は敷地内に菓子をつくる工場もありましたが、生産量も増えて広いスペースが必要になり、移転したそうです。しかし現在でも店蔵の奥には「炭蔵」「穀倉」「砂糖蔵」と名付けられた蔵が5つもあり、その名前から材料などを収納しておいた蔵だったと思われますが、現在ではギャラリーなどに使われています。
山崎家は京都にある町屋風のつくりで、広い敷地に数々の蔵があります。かつては「文庫蔵」を山崎さんの祖父たちが住居としても使っていたそうです。山崎さんたちも蔵造りの建物ではありませんが、敷地内に現在でも住われていると聞きました。
「私たちは木造の普通の住居に住んでいますよ」と山崎さんは笑います。
「蔵の修理は本当に大変ですよ。例えば壁の漆喰。地震などで漆喰が壊れてしまうと、どのくらい壊れているか、開けてみなければわからないです。見積もりで間違ってしまうことも。もう漆喰を修理できる左官屋さんも少ない。直すといっても業者さんのスケジュールに合わせて直すということになってしまうんです」
そう蔵造りの建物を維持していく苦労を話す山崎さん。
現在の建物は平成4年に改装して手を加えたものですが、「関東大震災でも、この間の東日本大震災でもヒビが入るところ、(建物に)力が加わる箇所は同じなんです。同じところにヒビが入る。ヒビが入ったら、そこを直す。そんな毎日です」と山崎さんは話します。蔵造りの建物は風情があるものですが、それを維持していくのは大変なことです。
しかし蔵造りの建物に歴史が刻まれているように、「龜屋」が生み出す銘菓たちにも確実にその伝統が刻まれています。だから「龜屋」には銘菓を求めて、人の流れが絶えないのだと思います。
Data
取材・文/小暮昌弘
撮影/稲田美嗣